2014年 03月 09日
8日(土曜日)5時起床。
日の出に合わせて外宮を参拝する予定だったが、気が変わった。 外宮を早朝参拝するのは清々しいだろうが、「せんぐう館」は開いていないし、 近隣のお店も閉まっているだろうから、時間を持て余すと思ったのだ。 代わりに、天の岩屋伝説ゆかりの二見興玉神社で日の出を見ることにした。 古来より伊勢に詣る者は、二見浦(ふたみのうら)で身を清めてから外宮へ 向かったというし、海岸で日の出を見るのはつきづきしいだろうと思った。 伊勢市駅 6:07発、JR始発で二見浦駅へ。 この日の天気は「晴れるが、真冬の寒さ」。 風は身を切るように冷たく、禊としては十分に思われた。 日の出の時刻10分過ぎ頃に神社に到着。 季節によっては「夫婦岩」の間、海から昇る太陽を拝めるそうだが、 今の季節はもっと南より、山の上からの日の出だった。 空は快晴だったかが山ぎわには雲がかかっていて、 雲間から見える朝日はやさしかった。 これから神宮をお詣りするにあたって、 天照大御神に良い「ご挨拶」ができた、という気持ちがした。 #
by npapapapa
| 2014-03-09 20:29
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2014年 03月 09日
JRで伊勢市駅へ戻り、8時、外宮へ。
参拝者はまばら、ゆっくりまわる。 外宮の中心には、新旧ふたつの正宮(しょうぐう)が並んでいた。 奥の方、向かって左側にあるのが新しいお宮。 昨年10月に式年遷宮を終え、豊受大御神のご神体が鎮座している。 右側の古いお宮は、来月から解体するという。 両方のお宮を比較できるこの時期に参拝できたのは運が良かった。 新しい正宮を拝す。 率直な印象は「真新しい箱」。 シンプルイズベストと言うに相応しい、すっきり堂々とした佇まいだが、 その奥に神様がいらっしゃるというのが、正直私にはあまりピンとこなかった。 むしろ新旧のお宮が並んでいるという、そのこと自体が私には印象的だった。 神宮にはこうした二物対比が随所に見られた。 新と旧 左と右 白と黒 外と内 和御霊(にぎみたま)と荒御霊(あらみたま) 奇数と偶数 縦と横 昼と夜 光と陰 古い正宮は確かに古いが、まだ十分に立派だ。 これを解体してしまうという潔さ。 「新しさを保つの唯一の方法は、生まれ変わり続けること」 とはありがちなフレーズだが、 それにはこれほどまでの潔さが必要なのかと思い、 どきっとした。 ひと通り外宮を巡ったのち、一度境内を出る。 喫茶店で一服して、すっかり冷えた体を暖めた。 #
by npapapapa
| 2014-03-09 20:28
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2014年 03月 09日
別宮・月夜見宮(つきよみのみや)に詣った後、
10時頃、ふたたび外宮へ。 遷宮に合わせて2012年にオープンした「せんぐう館」を見学する。 タッチパネルによる展示など、近代的な設備が印象的な資料館。 主な展示内容は、 神宮と式年遷宮の歴史 遷宮の段取りや遷宮にまつわる祭り 御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)とその制作の様子 など。御装束神宝とは、ご神体に付属する宝物の数々のこと。 この御装束神宝が凄かった。 刺繍、彫刻、漆器等、絢爛豪華でため息の出るほど美しい品々。 その道の名だたる名工たちが、何年もの時間と莫大な労力をかけて制作したものだ。 それらの品があまりに素晴らしいので、私はだんだん腹が立って来た。 シンプルイズベストではなかったのか? 豪華な品々を納めることが、この国に良い影響を及ぼすのか? 莫大な時間とお金とマンパワー、他に使い道があるのではないか? 喩えはあまりに悪いが、 悪王が民から吸い上げた税金を、自らが豪遊するために使っている そんな光景が私の頭をよぎった。 もやもやムカムカしたまま、私はせんぐう館を出た。 外宮の参拝者がみるみる増えてきているのを横目に見ながら、 私は内宮行きのバスに乗った。 #
by npapapapa
| 2014-03-09 20:27
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2014年 03月 09日
11時半、内宮前バス停着。
混み合う前に昼食をとる。 土曜日ということで、 内宮への参道「おはらい町通り」には人がごった返していた。 しゃれた和食店を見つけて入る。 注文を終えた後、私はさきほどのムカムカについて考えた。 ではもし、あれらの宝物が一切無かったら...? それはそれで、ひとつの自然崇拝の姿としておかしくないように思えた。 ただシンプルに自然を崇め、自然とともに生きる。 凝ったものは作らない。 食べ物も、狩猟・採取・栽培して極簡単な調理だけにとどめる。 仙人のようにあるがままに自然の中に身を委ねて生きる。 そういう生き方もあると思うし、実践している人もいるだろう。 では自分はそうしたいか? 多くの日本人はこれまでそうしてきたか? 否。 職人も料理人もみな、訓練して腕を磨き、 より美しいもの、人を感動させるものを追求する、 それこそが日本人が目指してきた、人間らしい活動ではないか。 豊受大御神は、天照大御神の食事を司る神様だが、 同時に衣食住の神様であり、産業の神様だという。 あの美しい神宝たちは、単に神様を喜ばせるための玩具ではない。 あれら神宝そのもの、そこに凝縮された技術と時間と思い、 美しいものを生み出す活動を尊重するということ、 それらこそが豊受大御神が象徴するものではないか。 先ほど列挙した二物対比で、ひとつ重要なものが抜けていた。 「自然と人間」だ。 四季を愛で、自然を敬い、その偉大さを十分に理解した上で、 人の手を存分に加え、技術を磨き、人間的な活動を輝かせる。 自然と人間の絶妙なバランス感覚を保つこと、それを重んじることが 日本人が選択した「人間らしい生き方」であり、 日本人の素晴らしさではないか。 料理が運ばれてきた。 素材を大切にしながらも料理人の技術が光り、 目にも楽しく、味も良かった。 #
by npapapapa
| 2014-03-09 20:26
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2014年 03月 09日
正午、内宮に詣る。
結論から言うと、これは最悪だった。人が多すぎたのだ。 内宮の入り口に架かる「宇治橋」を渡り終えたとき、 私は早くも、あまりの参拝者の多さに辟易した。 この時点で、明日の早朝にもう一度詣ることを、私は心に決めた。 すぐにでも引き返したいところだったが、それではまるでピンポンダッシュ、 天照大御神にあまりに失礼だと思ったので、 せめて正宮だけでもお参りすることにした。 人の波の一歩外側を、私はマイペースで歩いた。 ショックだったのは、 老若男女さまざまな人がいるはずなのに、歩くスピードがみな一緒であること、 そしてそれが異様に速いことだった。 「こことここをまわれば運気上げてくれるんでしょ? はい、まわったよ。」 「お詣りはチャッチャと済ませて、早くお土産買いに行こう。」 そんなインスタントなお詣りをしている人が殆どなのではないか。 この場所がどうして神聖だとされているのか、 それを自分の目で、自分の体で、確かめようとはしないのか? 少しでも長い時間この場所にいて、 この清浄な空気を体に取り込もうとは思わないのか? 生きるということがとても単純化されてしまい みんな自分で考えるということを忘れてしまったのではないか? 非常に不謹慎だが敢えて書くと、 その行列は、顔のない死者の行列にさえ思え、 私は恐怖を覚えた。 そしてそう思った次の瞬間、激しい自己嫌悪が襲ってきた。 仮にも旅行先に伊勢を選んだ志の高い人たちに向かって 顔のない死者のようだなんて、お前は何てひどいことを考えているんだ、と。 感情の持って行き場所がなくなり、私はいよいよ気分が悪くなった。 とにかく一刻も早くホテルへ帰って、寝てしまいたかった。 正宮では「明日また来ます」とだけ拝んで、 へろへろになって内宮を脱出した。 #
by npapapapa
| 2014-03-09 20:25
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