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2019年 05月 10日
敬礼段 〜 曼荼羅(まんだら)〜
天台宗や真言宗には「顕教(けんぎょう)」と「密教」という言葉がある。どちらも真理を明らめるための教えであるが、顕教は理論に、密教は経験による。声明は体験的な活動であるから、密教寄りのイベントと考えて差し支えないだろう。そして密教の重要なアイテムのひとつが「曼荼羅」である。「敬礼段」はまさに音で描いた曼荼羅と言えよう。
空海がわが国にもたらした曼荼羅は「胎蔵界(たいぞうかい)」と「金剛界(こんごうかい)」の2種で1組となっている。 胎蔵界曼荼羅では放射状に仏が描かれる。中央に大日如来、その東西南北に如来を4体、さらに斜め45度に4体。すなわち四方八方に如来が8体。そしてそこから外へ、無数の仏や様々なキャラクターが配置される。それらは外へ行くほど小さく描かれ、有限の紙面に無限の仏が描かれているかのような構図だ。 金剛界曼荼羅はまた違った無限を我々に見せてくれる。画面全体の正方形は9つの小さな正方形に分割され、その各々がさらに9つに分割され、その各々がさらに分割され…、そうしてできた小さな一つ一つのマス目に仏や仏具が配される。完璧な自己相似構造である。昔の人はこれ以上分割できない最小の長さの単位を「微塵(みじん)」と呼んだが、華厳経によると一微塵は全宇宙と等価な情報を持つとされる。金剛界曼荼羅は、そんな一つ一つの微塵にはことごとく仏が宿っている、と説いているようにも見える。この見方は「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉とも通ずる。この世界の生きとし生けるものはことごとく、生まれながらにして仏の性質を備えている、という意味である。 さて、敬礼段。 「一心敬礼」の掛け声の後、まずは東方の一斉諸仏、すなわち東の方角にいる全ての仏にスポットライトが当たる。東南方、南方、…と、四方八方の仏にスポットライトが当てられる。これで全ての仏を網羅したかと思うと、そうではない。 続いて「上」と「下」の仏にスポットライトが当たる。八方に上下を加えて十方、3次元である。さらに「三世」の「諸仏」、すなわち「過去」「現在」「未来」の仏にスポットライトが当たり、世界は4次元の時空に拡がる。この辺りまで来ると、テンポは加速し、曲想はトランス状態に突入してくる。 ここからさらにアイテムやキャラクターが加えられる。まずは「塔」、そして「経典」。文殊菩薩、弥勒菩薩をはじめとする多くの「菩薩」。そして釈迦二大弟子のひとり「舎利弗(しゃりほつ/サーリプッタ)」を筆頭とする「大声聞(だいしょうもん)」。 やがて曲調は頂点に達し、詩は世界の全ての人々を讃える。すなわち、「菩薩」「声聞」「縁覚」「得道」「賢聖僧」そして「聖凡衆」。 パッと全てが消えて無の世界。 いや、最後に暗闇に浮かび上がるのは「普賢菩薩」である。普賢菩薩は華厳経に登場する。華厳経の最後の章(入法界品、にゅうほっかいぼん)は物語仕立てになっていて、私はその現代語訳を読んだことがある。 主役の財前童子が菩提心(悟りの道を進むことへの決意)を起こし、53人の「善知識」と呼ばれる人々に教えを請い、最終的に普賢菩薩の悟りに達するのだが、この悟りに達した瞬間は、財前童子が菩提心を起こしたその直後であった(ここに「一瞬と永遠は等価である」という華厳経の哲学が見て取れる)、というのが大まかなストーリーだ。すでに述べたとおり、「一微塵と全宇宙は等価である」という思想も随所に見られる。ちなみに善知識の53という数字は、東海道五十三次の由来になったということで有名であるが、その53番目の宿場はまさに大津である。 このストーリーからすると普賢菩薩は時間と空間を司る存在のようにも見える。敬礼段は、そんな普賢菩薩が最後に象徴的に出てきて、静かに幕を閉じる。
by npapapapa
| 2019-05-10 10:06
| 合唱
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