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番外札所

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1. 二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)

8日(土曜日)5時起床。

日の出に合わせて外宮を参拝する予定だったが、気が変わった。
外宮を早朝参拝するのは清々しいだろうが、「せんぐう館」は開いていないし、
近隣のお店も閉まっているだろうから、時間を持て余すと思ったのだ。

代わりに、天の岩屋伝説ゆかりの二見興玉神社で日の出を見ることにした。
古来より伊勢に詣る者は、二見浦(ふたみのうら)で身を清めてから外宮へ
向かったというし、海岸で日の出を見るのはつきづきしいだろうと思った。

伊勢市駅 6:07発、JR始発で二見浦駅へ。
この日の天気は「晴れるが、真冬の寒さ」。
風は身を切るように冷たく、禊としては十分に思われた。

日の出の時刻10分過ぎ頃に神社に到着。

季節によっては「夫婦岩」の間、海から昇る太陽を拝めるそうだが、
今の季節はもっと南より、山の上からの日の出だった。
空は快晴だったかが山ぎわには雲がかかっていて、
雲間から見える朝日はやさしかった。

これから神宮をお詣りするにあたって、
天照大御神に良い「ご挨拶」ができた、という気持ちがした。
# by npapapapa | 2014-03-09 20:29 |

2. 外宮

JRで伊勢市駅へ戻り、8時、外宮へ。
参拝者はまばら、ゆっくりまわる。

外宮の中心には、新旧ふたつの正宮(しょうぐう)が並んでいた。
奥の方、向かって左側にあるのが新しいお宮。
昨年10月に式年遷宮を終え、豊受大御神のご神体が鎮座している。
右側の古いお宮は、来月から解体するという。
両方のお宮を比較できるこの時期に参拝できたのは運が良かった。

新しい正宮を拝す。
率直な印象は「真新しい箱」。
シンプルイズベストと言うに相応しい、すっきり堂々とした佇まいだが、
その奥に神様がいらっしゃるというのが、正直私にはあまりピンとこなかった。

むしろ新旧のお宮が並んでいるという、そのこと自体が私には印象的だった。
神宮にはこうした二物対比が随所に見られた。

新と旧
左と右
白と黒
外と内
和御霊(にぎみたま)と荒御霊(あらみたま)
奇数と偶数
縦と横
昼と夜
光と陰

古い正宮は確かに古いが、まだ十分に立派だ。
これを解体してしまうという潔さ。

「新しさを保つの唯一の方法は、生まれ変わり続けること」
とはありがちなフレーズだが、
それにはこれほどまでの潔さが必要なのかと思い、
どきっとした。

ひと通り外宮を巡ったのち、一度境内を出る。
喫茶店で一服して、すっかり冷えた体を暖めた。
# by npapapapa | 2014-03-09 20:28 |

3. せんぐう館

別宮・月夜見宮(つきよみのみや)に詣った後、
10時頃、ふたたび外宮へ。
遷宮に合わせて2012年にオープンした「せんぐう館」を見学する。

タッチパネルによる展示など、近代的な設備が印象的な資料館。
主な展示内容は、
 神宮と式年遷宮の歴史
 遷宮の段取りや遷宮にまつわる祭り
 御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)とその制作の様子
など。御装束神宝とは、ご神体に付属する宝物の数々のこと。

この御装束神宝が凄かった。
刺繍、彫刻、漆器等、絢爛豪華でため息の出るほど美しい品々。
その道の名だたる名工たちが、何年もの時間と莫大な労力をかけて制作したものだ。

それらの品があまりに素晴らしいので、私はだんだん腹が立って来た。

 シンプルイズベストではなかったのか?
 豪華な品々を納めることが、この国に良い影響を及ぼすのか?
 莫大な時間とお金とマンパワー、他に使い道があるのではないか?

喩えはあまりに悪いが、
 悪王が民から吸い上げた税金を、自らが豪遊するために使っている
そんな光景が私の頭をよぎった。

もやもやムカムカしたまま、私はせんぐう館を出た。
外宮の参拝者がみるみる増えてきているのを横目に見ながら、
私は内宮行きのバスに乗った。
# by npapapapa | 2014-03-09 20:27 |

4. 昼食

11時半、内宮前バス停着。
混み合う前に昼食をとる。

土曜日ということで、
内宮への参道「おはらい町通り」には人がごった返していた。
しゃれた和食店を見つけて入る。

注文を終えた後、私はさきほどのムカムカについて考えた。

 ではもし、あれらの宝物が一切無かったら...?

それはそれで、ひとつの自然崇拝の姿としておかしくないように思えた。
ただシンプルに自然を崇め、自然とともに生きる。
凝ったものは作らない。
食べ物も、狩猟・採取・栽培して極簡単な調理だけにとどめる。
仙人のようにあるがままに自然の中に身を委ねて生きる。

そういう生き方もあると思うし、実践している人もいるだろう。
では自分はそうしたいか?
多くの日本人はこれまでそうしてきたか?

否。

職人も料理人もみな、訓練して腕を磨き、
より美しいもの、人を感動させるものを追求する、
それこそが日本人が目指してきた、人間らしい活動ではないか。

豊受大御神は、天照大御神の食事を司る神様だが、
同時に衣食住の神様であり、産業の神様だという。

あの美しい神宝たちは、単に神様を喜ばせるための玩具ではない。
あれら神宝そのもの、そこに凝縮された技術と時間と思い、
美しいものを生み出す活動を尊重するということ、
それらこそが豊受大御神が象徴するものではないか。

先ほど列挙した二物対比で、ひとつ重要なものが抜けていた。
「自然と人間」だ。

四季を愛で、自然を敬い、その偉大さを十分に理解した上で、
人の手を存分に加え、技術を磨き、人間的な活動を輝かせる。
自然と人間の絶妙なバランス感覚を保つこと、それを重んじることが
日本人が選択した「人間らしい生き方」であり、
日本人の素晴らしさではないか。


料理が運ばれてきた。
素材を大切にしながらも料理人の技術が光り、
目にも楽しく、味も良かった。
# by npapapapa | 2014-03-09 20:26 |

5. 内宮

正午、内宮に詣る。

結論から言うと、これは最悪だった。人が多すぎたのだ。

内宮の入り口に架かる「宇治橋」を渡り終えたとき、
私は早くも、あまりの参拝者の多さに辟易した。
この時点で、明日の早朝にもう一度詣ることを、私は心に決めた。

すぐにでも引き返したいところだったが、それではまるでピンポンダッシュ、
天照大御神にあまりに失礼だと思ったので、
せめて正宮だけでもお参りすることにした。

人の波の一歩外側を、私はマイペースで歩いた。

ショックだったのは、
老若男女さまざまな人がいるはずなのに、歩くスピードがみな一緒であること、
そしてそれが異様に速いことだった。

「こことここをまわれば運気上げてくれるんでしょ? はい、まわったよ。」
「お詣りはチャッチャと済ませて、早くお土産買いに行こう。」
そんなインスタントなお詣りをしている人が殆どなのではないか。

この場所がどうして神聖だとされているのか、
それを自分の目で、自分の体で、確かめようとはしないのか?

少しでも長い時間この場所にいて、
この清浄な空気を体に取り込もうとは思わないのか?

生きるということがとても単純化されてしまい
みんな自分で考えるということを忘れてしまったのではないか?

非常に不謹慎だが敢えて書くと、
その行列は、顔のない死者の行列にさえ思え、
私は恐怖を覚えた。

そしてそう思った次の瞬間、激しい自己嫌悪が襲ってきた。
仮にも旅行先に伊勢を選んだ志の高い人たちに向かって
顔のない死者のようだなんて、お前は何てひどいことを考えているんだ、と。

感情の持って行き場所がなくなり、私はいよいよ気分が悪くなった。
とにかく一刻も早くホテルへ帰って、寝てしまいたかった。

正宮では「明日また来ます」とだけ拝んで、
へろへろになって内宮を脱出した。
# by npapapapa | 2014-03-09 20:25 |